「国立教育研究所広報第120号」(平成11年5月発行)
高等教育政策の形成と評価に関する総合的研究―高等教育政策研究の背景―
教育政策研究部長 喜多村 和之
1.はじめに
教育政策研究部では、平成8年から3年計画で、標記の共同研究を実施し、平成11年3月に成果をまと めたので、その概要を報告させていただくことにする。
高等教育を政府が政策上の重要課題としてとりあげるようになってから、すでに多くの年月を経ている。 1963年の中央教育審議会答申(いわゆる三八答申)から、1971年の四六答申、1980年代の臨時教育審議会 答申を経て、1998年の大学審議会答申(「21世紀の大学像と今後の政策方策について」)に至るまでに、実 に30年余にわたって、政府は日本の高等教育政策の立案と実施に関与してきたのである。
これらの個々の改革課題の論点を整理し、改革プログラムの分類・整理を徹底させるために、当研究部 では平成4年に「教育改革課題のタクソノミーと改革案のアセスメント―四六答申と臨教審を中心に―」 (研究代表者・市川昭午)と題する共同研究を実施し、平成7年にはその成果をまとめて発表してきた(平 成7年、国立教育研究所、147ページ.)。
本研究は、以上の共同研究をベースとしてこれを継続しつつ、新たに高等教育政策に対象をしぼり、更 に総合的な分析・評価をめざして、平成8年(1996)より3年計画で開始された。すなわち、政府の戦後高 等教育政策の全体を、歴史的検証と国際比較の観点からの評価を試みるとともに、現状分析と有識者の意 見調査等を通しての未来予測と事前評価という観点から、「政策評価」と「未来展望」を試みようとしたの である。その意味で本研究は多角的な視点から多彩なアプローチを試みており、これが「総合的研究」と 名付けたゆえんである。
研究組織は当研究所教育政策研究部の全スタッフをはじめ所外の専門研究者総計21名から構成され、そ れぞれの研究成果は概要(23ページ)と本報告書(331ページ)にまとめて、平成11年3月に発行された。
2.研究の目的、方法
(1)戦後日本の高等教育政策は、政府主導によるナショナル・レベルの政策提言に限った場合、中央教 育審議会(1961年、1971年)、臨時教育審議会(1984−1987年)、大学審議会(1987−1999年)という審 議会方式を通じて形成され、これを政府が法案化し、国会の立法化によって行財政権を行使して実施する、 というパターンで行なわれてきた。こうした一連の政府の高等教育政策は、その30年余に及ぶ期間におい て、歴史的にどのように意味づけられ、評価されるべきか。またその政策形成過程には、どのような課題 が重複的にとりあげられ、あるいは放棄され、または変更がなされたのか。このような問題を教育政策史 の観点から究明した。この作業は主として「政策史研究班」が担当した。(報告書の第3章〜第7章、以下 同じ)
(2)高等教育政策一般に関しては、日本でも若干の先行研究があるが、政策形成や意思決定、さらには 政策評価の理論化はまだ未開拓の分野といってよい。本研究においては、高等教育における政策研究(policy studies)という新分野の理論化を志した。この課題には「政策理論班」があたった。(第3章、第8章)
(3)日本の高等教育政策の特質の解明には、単に国内状況の分析にとどまることなく、ひろく国際的な 環境や諸外国政府の高等教育政策の動向との比較的考察が必要となる。この課題は、「国際比較班」が担当 した。(第8章〜第14章)
(4)歴史的研究は主として過去の経験から学ぶという側面があるが、政策形成とはすぐれて未来への投 資的要素が強いので、政策の「事前評価」や「未来予測」を不可欠とする。そこで日本の政策形成担当者、 大学関係者、高等教育研究者等の有識者を対象に、2010年の時点を対象とした未来予測と高等教育政策の 在り方に関する全国調査を実施し、有識者が想定する高等教育の将来像を把握することを試みた。この作 業は「調査班」が担当した。(第20章〜第24章)
(5)現代の高等教育には、今日とりわけ重要視され、関心を集めているイシューがある。各研究者はそ れぞれの関心に基づき、重要課題の問題提起と提言を試みた。(第15章〜第19章)
3.総合所見
(1)1990年代を通じて、各国政府は、先進工業国、発展途上国を問わず、2000年以後を起点とした高等 教育における目標設定、教育計画の策定、種々の政策形成や立法化などに一斉に取り組んできた。われわ れの国際的比較研究の結果によれば、90年代末から21世紀半ばにかけて、世界の高等教育は国際的な共通 問題に直面し、各国はこの解決に政策的に対応することが迫られている。特に日本との関連が深いものと しては、
@高等教育や研究の可能性に対する社会的・国家的期待の高まりと限りある資源配分の問題
A高等教育機会の拡大(マス型からユニバーサル型高等教育への移行)と同時に高等教育の質の高度化を 求める要請との葛藤
B政府からの高等教育への財源確保の困難化と高等教育に対してアカウンタビリティ(社会的説明責任) を求める社会的圧力の強化
C政府による高等教育の「規制緩和」と「自己責任」原理の強調及び大学の自治・自律性の喪失ないし後 退
D高等教育の市場経済化や大学の企業家主義的体質化の進行と教育・訓練・研究機能の外部化の傾向
E高等教育機関の学生納付金への依存度の高まりと教育費の受益者負担主義の徹底化
等々の傾向が指摘される。以上の課題はいずれも、それぞれ互いに相反し、矛盾しあう方向性を持つもの でありながら、それらが並行的に起こり、しかもいずれも同時的な問題解決を不可欠としており、そのこ とが高等教育の政策形成を一層複雑化させ、困難にしているのである。
(2)国際的な共通課題に加えて、特に日本の高等教育政策上の重要課題としては、21世紀の日本の将来 にとって高等教育および研究の振興が優先されるべき政策課題であることは原則的な合意がみられる。し かし、高等教育を経済合理性や効率化の視点からのみ予算削減や制度改革の対象としたり、任期制導入や 評価と資源配分との結合等を性急に実施しようとする方向に対しては、高等教育や研究は長期的視野から 充実・発展させる政策が展開されないと、日本の将来にとって大きな禍根となるとの懸念が強く表明され ている。また、理工系中心の研究開発や応用面のみを重視する高度経済成長時代型の発想は転換されるべ きであり、文・理の融合・調和をめざす統合的な教育・研究システムとして再構成される必要性が指摘さ れている。学校教育、生涯学習、学術、研究開発等のシステムとの統合・調整を視野にいれた高等教育シ ステムの形成は、これからの長期的な政策課題となろう。さらに21世紀初頭から日本の社会と教育が直面 する最も直接的な変化は、いわゆる少子化・高齢化現象であり、人口変動は、生徒・学生集団の量的・質 的変化にとどまらず、入学選考過程、学校経営、教授・学習過程、学費負担、雇用慣行等々における構造 的な変革をもたらすものと考えられる。近い将来には、いわゆる「学校淘汰」や経営上の再編、合併等の 可能性も予想されているが、こうした事態の到来に備える体制は、政府も学校側もまだ十分に整えられて いるとはいえない。とりわけ学校経営上の危機管理や学生の保護等については、早急に対応策を講じるべ きである。
(3)大学設置基準の大綱化は、学部課程レベルにおけるカリキュラム編成の規制緩和策として、大学教 育の改革にとって一般に歓迎されている。しかしこの政策が現実には一般教育体制の弱体化や教養教育の 形骸化を招く結果をもたらしたことも否定できない。大学教育における教養教育の後退と専門教育の一層 の強化現象は、文理融合や知の総合化をめざす今後の高等教育の在り方からみれば、まさに逆行した方向 といわざるを得ない。こうしたひずみを是正するために、政府と大学は、それぞれの立場から強力な是正 措置を検討する必要がある。
(4)学生の学力・動機・学習パターンにおける「多様化」現象は、教育現場にきわめて深刻な影響を及 ぼしており、単に大学側に成績評価の厳格化や高等教育段階の補習教育の提供を求めるだけでは解決しが たい。この問題には、大学入試や学生募集の在り方、高校教育との接合(アーテイキュレーション)、ひい ては学校教育体系全体の視点からの教育システムの再構築を視野に入れた総合的な教育政策の形成が必要 となろう。
(5)大学院重視政策は、日本の教育・研究水準の向上策の一つとして、基本的方向としてはひろく合意 されているが、学部課程教育の軽視や大学院との役割分担や連関の曖昧性、教育水準低下問題の学部レベ ルから大学院レベルへの先送り、全国的な大学院昇格運動の激化とこれによる水準の低い大学院の増加、 財政的措置の欠如、学生募集難現象の増大、大学間格差の拡大、教職員負担の増大等々、の問題を生みだ している。このような矛盾の解決が図られないままに、大学院の量的拡大が進行していけば、当初の政策 意図に反して、日本の高等教育全体の質の空洞化がもたらされる可能性がある。したがって、いかにして このような問題を解決しうるかを含めた大学院政策の再検討が望まれる。
(6)種々の規制緩和、情報のグローバル化、情報技術の発展可能性、財源の多様化等の傾向を勘案すれ ば、日本の高等教育を規定している現行の学校教育法や大学設置基準法等の法令は、今後抜本的な見直し が不可欠となり、法令改正の政策的検討が必要となろう。また高等教育の財源は、もはや公的資金(税) にのみ依存できなくなり、いわゆる「脱政府化」が一層進行するとしたら、現行の国立大学の財政制度や 私学助成方式を基本的に見直すとともに、財源の多様化や新しい財源開発の方策を究明する必要がある。
(7)時代の変化に合わせた変革・革新は早急に実行される必要があるとは言え、こういう変革の時代に こそ、同時に学間の自由、大学の自治、大学の自律性という、これまで長期にわたって積み上げられてき た伝統的な機能の維持・存続は一層肝要となる。この持続と変革の均衡をいかに賢明に実現させるかは、 政府と大学双方にとって最も慎重に留意されるべき根本問題である。