第五章 指導結果の考査と活用

 

 一, 理科の指導結果の考査について

指導結果の考査ということを,これからの学校教育で実際に試みようとしているのであるが,それに先だって考えておかなければならない問題がある。それは

 (1)この考査によって,教育上ほんとうに役に立つはっきりした事実がどれだけ得られるかということ。

 (2)この考査が学ぶ者の自由な学究心に暗い影を投げかけ,その結果,教育の本質にひびが入るかも知れないという心配。

 この二つの問題について,ここに解決を與えようというつもりではない。気づいたことを二三述べて,このような問題についての参考に供したいと思う。

 (1)の問題  科学教育が科学知識を暗記させることに終ってはならないという主張はもう一般に認められたと思う。今日の科学教育の務めは,物事を科学的に見たり考えたり扱ったりすることのできる人間を育てることである。言いかえれば,子供の人格の中にある科学的な行動をするような性格を伸ばしてやることである。簡単にいえば,科学的な性格を持った人間を作ることが科学教育の最終の目的であろう。したがって指導結果を判定するということも,この人間を作るのに指導の効果があったか,なかったかと判定しようとするものである。結局は人間あるいは人格を判定することになる。この様な人間とか人格とかの判定が紙と鉛筆の簡単な仕事でかたづくものであろうか。人生をまじめに考える者にとって,しんけんに教育をしている者にとって,これは重大な問題でなくてはならない。この考査をすることはよいとして,その結果の判断にはよほど深い考えをしなくてはならない。この結果の判断が軽々しくなされると,多くの人々を苦しめることになる恐れがある。といって,このような心配が今から始まろうとしているのではない。これはすでに試験といふ形で実際に永年にわたって問題とされて来たところである。今ここで試験を考査と名称を変えるのは,従来のあやまった考えを改めたいからに外ならない。

 指導結果の考査にはこのようなむずかしい問題を含んでいるのではあるが,学習の指導方法を研究し発達させるためには,どうしてもこの考査を始めなければならない。始めるといっても,この考査をどんな方法でやればよいかをまず研究することから始めるのである。後に例を述べるがこれを見て学習考査とはこんなふうにやればよいものだと早がってんをしてもらいたくない。「この例も一つの行き方である。」「これで果たして能力が判定できるであろうか。」「もっとよい方法はないであろうか。」というように考えられたい。研究の要点は,簡単にして正確な結果を得る方法を見つけることに盡きる。

 (2)の問題  上に述べた事が,同時に,この問題についての主要な点に触れている。これまで試験があったために,学ぶ者の自由な楽しい気持をどれだけ傷つけていたかは,自分の体験を反省してみればたれでも思いあたるであろう。ことに科学教育において,入学試験や学校内の試験がどんなに大きなわざわいであったかを思わなければならない。民学校の時代になって理科における科学教育の方向を一変させようと教科書が改められたにかかわらず,現実には生徒の必要と興味にしたがって研究させるということをせず,ともかく教科書を端から端まで廣く浅く覚えるような傾向が見られたのであった。もし試験がなくて,明かるく,自由な学習ができる境遇におかれたら,ある子供は好きなだけ星空を眺めて探求心を満足していたであろうし,またある子供は,カラスの子を愛育したかもしれない。試験に代って,こんどの考査には学ぶ者の気持をいじけさせないような心やりが極めて必要なことである。それで,生徒がテストを喜び,楽しんでやるような方法を見つけることが望ましい。

 この学習考査の目標が個人の能力を査定するというよりは,むしろ,学習指導の方法を進歩させるための資料を得ることにあるので,これは教師のがわの必要から行なうのである。そしてこの資料は個人を指導する参考にもするが,むしろこの資料によって学級全体の能力が自分の指導によって,どれだけ進んだかの目やすを得て,それによって,今後の学級指導をどんなにしたらよいかを考えて行くのである。

 二,科学教育の各種能力の考査方法の例

 次に科学教育で取上げられる各種の能力の考査方法について述べる。掲げた例は,大部分アメリカで下級中等学校(程度)に用いているものである。

 わがのものについては,後の各学年指導の章を参照されたい。

 (一) 科学的考察力の考査

1,問題を見つけはっきりつかむ能力

 教室のうちや外などで,生徒が自由な質問や意見を出した時,生徒の言ったことから判断する。

 例えば遠足の途中でレンギョウの植えこみを見た。黄色い花が上の方の枝だけ満開である。五六人の生徒が「なぜ下の方の枝の花は咲かないんだろう」という。一人の生徒は,「レンギョウの花は下の方の技にもあるか」「下の方の技はこの間の寒さにやられたのじゃないか」

 この予想の正否は別として,たしかにこの生徒は一つの研究すべき問題をつかむことができたのである。

 学級で作文形式の調査による場合の問題

 例,農夫が沢山のニワトリを飼っている。ある日には卵を沢山産むが,別の日には非常に少ないことに気がついた。このちがいがなぜであるかを答えるにはこの外にどんなことを知らねばならないか。

2,現象を正確に観察する能力

 野外でも室内でも生徒を観察していればわかるが,教師が実験をして見せ,それを観察させておいて,その後で生徒に問題を出して答を書かせる方法もある。

 始めに書いてある長い文を正しく完成するにはその下に並べてある短い句のうちどれを選べばよいか。適当と思うものにしるしをつけよ。
 
T,液体がある時間沸とうした後ビーカー中の水は,

――a 沸とうし始めた。

――b 少し色がついた。

――c 色に変わりはなかった。

――d 量がふえた。

U,曲った管を通った蒸気は

――a 少し灰色であった。

――b 無色であった。

――c 白色であった。

――d 沸とうした液体と同じ色であった。

V,実験を始めて,液が沸とうし始めるまでに,

――a 小さなあわがフラスコの中にできた。

――b 水がビーカーからフラスコの方へ流れた。

――c 水滴が管の外側についた。

――d 水が漏斗の管を上った。

――e 空気が漏斗の管から吸いこまれた。

――f 気ほうがガラス管から出て来た。

W,フラスコ中の液が沸とうし始めた後,

――a 音がビーカーから出た。

――b 曲った管は青く見えた。

――c 水が曲った管の中にできた。

――d フラスコ中の液の量が減った。

――e フラスコの底が赤熱した。

X,実験の終りに教師が行ったことが,次に書いてある。教師が行った順序に1から4までの番号を書き入れよ。

――炎をとりのけた。

――水の入ったビーカーを取りのけた。

――フラスコを取りのけて,からっぽにした。

――ガラス管のついているせんをとった。

3,事実から推論する能力

 ある実験の方法と,その実験から得られた結果を書き,その下にその実験の結果から得られたものとして五六箇條の結論の文を掲げる。そうして,この結論について次の様な番号の印をつけさせる。

 得られた結果を正しく推論したものである。――(1)

 結論は正しいかも知れないが,この結論を下すには事実が足りない。――(2)

 実験の結果に反するから,結論は正しくない。――(3)

4,実験を企画し,予想の正否をためす能力 5,事実や原理を新しいものに応用する能力

 次のやうな例を出し,正しいと思うものに印をつけ,更にその理由を挙げさせる。

 以上述べたもののほかに科学的な能力としてはいろいろなものがある。それらについても判定の方法を研究しなければならない。

 (二)科学的態度の考査

 科学的態度には次に掲げるようにいろいろある。このような態度が育つように指導することは極めて重要なことである。しかしその発達の程度を,ある尺度で測るということは,非常に困難なことである。科学的態度を細かく分類して,各細目について生徒を観察して記録するのも一つの方法である。観察はできるだけいろいろな機会にするような心がけが必要である。しかも,短期間の観察では余り役に立たない。長期にわたって,気長く記録して始めて,その発達なり傾向なりを推察することができるのである。

 このように科学的な態度を分析して,数えあげて見れば相当の数に達することであろう。この科学的態度なり,前に述べた科学的能力なりの発達を判定しようとする時に注意しなければならないことがある。このように分析した数多くの能力や態度を全部十分に具えていることは結構なことには違いないが,そのような人間は現実にはおそらくあり得ないことである。しかも,全部具えている人間が必ずしも,人類の幸福をもたらすとは限らない。その一部しか具えていない人間――これが現実の人である――が,この社会の幸福を増進することに貢献している場合は多いのである。要はその人の持っている個性をよく観察して,どの方向に伸ばしたならば,この社会に住んで,その人も幸福になり,また周囲の人々も幸福になるかということである。このような方向に個性が活動し得るように環境を整えてやることが教育である。このような教育のために能力や態度の判定を利用して行くならば,初めて意義がある。決して個人價値を判断する尺度に利用すべきものではない,ということを心得ておかなければならない。

 (三)学習項目に関する指導結果の考査

 学習項目自身については別の表を参照されたい。この項目に現われたところは,科学的知識である。この項目についての指導結果の考査の方法は,今まで試みられたところを見ると割合に簡単である。それでここに改めて,例をあげて説明する必要はないであろう。各学年別指導の項について見られたい。しかしここにこの学習項目の理解の程度を考査する問題について気になることを少し記しておきたい。

 この考査の方法を考えてみると,全く記憶力の試験に終りはしないかという心配がある。

 学習項目は単にそれを記憶していれば,それでよいのではない。それを覚えさせれば学習の目的を達したものと考えてはならない。もしこの考えを誤まると,おそらく科学教育は明治時代に逆行することになろう。

 これらの学習項目は,指導方法の章にもちよっと触れたように,生徒自身がいろいろな事実について,見たり,聞いたり,確めたりした末に,自分で見つけ出した一つの結論でなければならない。研究の道中でハッと気がついた眞理であることもあり,苦心に苦心を重ねて,だんだんに築き上げてつかみ得たことであることもあろう。教師が生徒に最初から與えるものでもなし,また最後の到達点として與えるものでもない。むしろ,指導する立場のものに,指導の方向を指示したものと解すべきものである。生徒は教師の指導にしたがって,その方向に研究を進めて行く。何月何日にどこまで進んでいるかは,生徒の能力によってちがっているはずである。

 かように考えると学習項目の理解の程度を調べることは,そう簡単な問題ではないと思う。単に科学知識の記憶の試験にならないような研究をしていただきたい。